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  • Shuhei Ise, “Through from Binoculars”, 2018, Oil on canvas, (H)41 × (W)31.8 cm

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伊勢周平|ただの絵

25 January - 22 February, 2020

Venue : Takuro Someya Contemporary Art


この度、Takuro Someya Contemporary Artでは2020年1月25日より、伊勢周平の個展「ただの絵」を開催いたします。 伊勢周平にとってTSCAでは2017年の個展「ぶっきらぼうな筆」以来、約3年ぶりの個展開催となります。

 

本展覧会はOAGドイツ東洋文化研究協会主催の企画展示「カナリアの仕事へ」(ドイツ文化会館、2019)にて初めて展示された「双眼鏡から」の他、新作を含む大小数十点の絵画作品によって構成されます。 伊勢がこれまで一貫して取り組んできた絵画制作について、ストレートな抽象絵画群と作家本人によるエッセイを交えて読みほぐすような展覧会になります。

 

伊勢周平は1986年山形県生まれ。画家。2013年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻油画技法材料第一研究室、17年同大学絵画科博士課程修了。 主な展覧会に、2012年「Einfach Malerei」(ミュンスター芸術アカデミー)、2015年「賽の一振り」、2017年「ぶっきらぼうな筆」(ともにTakuro Someya Contemporary Art)、2018年「高橋コレクション 顔と抽象 ─ 清春白樺美術館コレクションとともに」(清春芸術村)、「JPN_3」(Sprout Curation)、2019年「Between figure and contour」(3331 Arts Chiyoda)など。

 

 

ただの絵

 

「ただの絵」という言葉は、中西夏之『大括弧』[1]中の同名題の随筆による。その中で中西は、シュルレアリスム運動の絵はその概念における内面のモデル(夢やそのイメージ)が絵画形式に棲息することから、その場となる絵画=絵自体とは何かという問いを立てた。この問いは、芸術における概念と絵自体の属性は別個の、互いに自律した存在であることを示している。そして中西は、「生き物としての絵自体に内面があり、そこから見れば私の内面も外部」であると、自身の制作態度を明らかにしている。

 しかし画家の絵を描く行為に焦点をあてた際、厳密に絵自体の内面と画家の内面は切り離して考えられるのかという疑義が挟まれる。ちょうど制作途中の絵を想えばよいだろう。支持体は画家が手を加えるたびに画像イメージが刷新され、また画家が感覚して受け取ったイメージは画家の精神により刷新されるという不断のサイクルがみとめられる。絵自体の内面には「支持体」と「画家の精神」を両極としたイメージの切断と創発の往還があることを考慮すれば、絵自体とは画家の内面が内包された状態であるといえるだろう。

また支持体−画家におけるイメージサイクルの構造は絵画−観者においても代替できるだろう。しかしここで画家と観者の眼差しはすなわちイコールではないことに留意しなければならない。デュシャンは絵画−観者の関係性を語った際に「観者固有の仕方で創造行為に参与する」と述べたが[2]、それはすべての芸術作品が観者の主体性に帰属することを前提としたものであった。この論の究極はイヴ=アラン・ボワらのいうような、ジャクソン・ポロック《五尋の底に》(1947年)を目玉焼き(クレス・オルデンバーグの目玉焼きであるにせよ)として読解してしまうような、価値や意味の変質、拡張(ボワは「操作」といったが)である。[3] 2017年末に沸き起こったメトロポリタン美術館所蔵のバルテュス《夢見るテレーズ》の撤去運動に端を発した騒動などは人為的に引き起こされたコードエラー、イメージサイクルのデッドエンドである。(中西の随筆によれば「ただの絵」の発端がブルトンによるバルテュスの絵に対する非難であったことは興味深い。)私はこうした形相因からのコードの読み解きと操作のみが芸術作品の最良の見方であるとは思わない。いずれにせよ観者においては絵自体が不断のイメージサイクルがおこるような可能態としてとらえる企てが求められる(もちろんこれは画家の眼差しがそのようなものであることが前提であるのだが)。ドゥルーズが指摘した〈触感的視覚〉はその一例としてあげられるだろう。[4] また同じ絵を数年ぶりに鑑賞した時に以前とは異なる質の説得力をもって画面が迫るような経験はその証左である。

 私の思う〈ただの絵〉とは、上述のような絵画と画家・鑑賞者の仲立ちとなる感覚性質を伴ったイメージであり、絵画の実体である。

 

そして〈ただの絵〉という言葉には絵画の〈これ性(=haecceity)〉への誘いという、より強い含意が込められている。それはいつ、どこで、だれがといった文脈が明かされないまま「これは絵画である」と提出された丸裸の絵を思い浮かべたときの、精神的な瑕疵とでもいおうか。その傷を思い出すことで悠久の過去から未来の絵の連綿が思い起こされるような。ここでは絵画作品がある表象としての認知からかけ離れ、絵にとって「リスクの採集場」となるような。

このリスクは、必然的帰結として得られるような色彩・構図・形といった絵画の形相が持つ意味からの撤退というかたちでしばしばあらわれるものだが、それは芸術の歴史的文脈によって整理されたあらゆるコードから絵画を孤立させ、なお存在を保つ絵画特有のものをいま再び絵に投げ入れる営みである。その一つに、制作段階での偶有性の選択があげられるだろう。絵の中で偶然起こっているように見える様態は、画家の選択によってイメージの往還が成立した痕跡だが、見る者にはただの偶然として捉えられるようなものである。

筆を()いたあとは2、3時間、ものによっては一日中絵を眺めている。私にとってそれは方向付けされた意味がなくなるまでの大切な待機姿勢である。

ジャングルか砂漠に自分の描いた絵を放って帰ってきたいと長い間考えているが、未だに算段がつかない。

 

伊勢周平(いせ・しゅうへい)画家




[1] 中西夏之『大括弧 緩やかみつめるためにいつまでも佇む、装置』(1989年、筑摩書房)

[2] マルセル・デュシャン「創造過程」(1957年4月ヒューストン、テキサス州でのアメリカ芸術連盟の集会において)、『マルセル・デュシャン全著作』、ミシェル・サヌイエ編/北山研二訳、東京:未知谷、1995年

[3] イヴ=アラン・ボワ/ロザリンド・E・クラウス『アンフォルム』、加冶屋健司/近藤學/高桑和巳訳、東京:月曜社、2011年

 

[4] ジル・ドゥルーズ『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』(宇野邦一訳、2016年、河出書房新社、原著1981年)

 ドゥルーズは、ベーコンの絵画制作における〈図表(ダイヤグラム)〉を契機として立ち上がる画家の手を想いながら対象を見る感覚として〈触感的視覚〉を見出す。また筆者は、〈触感的視覚〉が絵画にもたらすイメージの更新を、バシュラールの接木概念を援用するかたちで人間の文化的徴(しるし)と考えていることを述べた。

ref.「Deleuze /Guattari Studies in Asia7th International Conference 2019 Tokyo」におけるプログラム p.51 ( https://www.deleuze.jp/pdf/DGconference2019_program.pdf )

 

 

「伊勢周平|ただの絵」

開催期間 2020年1月25日(土)- 2月22日(土)

オープニングレセプション 1月25日(土)18時ー20時 ※作家来場予定

 

開廊:火・水・木・土 11:00 – 18:00|金 11:00 – 20:00

休廊: 日曜・月曜・祝日

〒140-0002 東京都品川区東品川1-33-10 TERRADA Art Complex  3F TSCA

TEL 03-6712-9887 |FAX 03-4578-0318 |E-MAIL: gallery@tsca.jp

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