Takuro Someya Contemporary Artは5月27日(土)より、山中信夫の展覧会を開催いたします。
1948年に大阪で生まれた山中信夫は、1971年に多摩川の川面に川の流れを撮った16ミリフィルムを映写する《川を写したフィルムを川に映す》を発表し、作家としてのキャリアをスタートしました。その後、初期のフィルム作品と連関しながら発展させていったピンホール写真の技法を用いた代表的なシリーズからインスタレーションや写真を組み合わせた立体など、独自の造形表現を展開させたことで知られています。
活動は海外にも及び、1979年の第15回サンパウロ・ビエンナーレ、1982年の第12回パリ・ビエンナーレにサイト・スペシフィックな大作で参加するなど国際的にもその存在感が高まる中で、1982年に個展の下見に訪れていたニューヨーク滞在中に敗血症により惜しくも34歳の若さで亡くなりました。
本展では、12年という短い活動期間の中で残された多数のピンホール写真から数十点を二会期に分けて展示し、あらためて重要な視覚芸術を切り拓いた山中作品の軌跡を辿ります。
前期展覧会では、初期の貴重な1973年制作の「あふれる太陽のピンホール」をはじめ14点、1981年制作の「東京の太陽」シリーズ16点を展示いたします。
山中信夫について(前編)
三輪 健仁(東京国立近代美術館)
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……結局、川以後にピンホールっていうけど、ぼくのなかではそうなっていない、川やってたらピンホールになって、同じ感じなわけです。
「インタビュー作家論 山中信夫――無価値な穴の回転箱」(伏久田喬行との対談)『美術手帖』No.405、1976年3月、p.181
山中信夫(1948-1982)のわずか12年のキャリアは、《川を写したフィルムを川に映す》(1971年)によって幕を開けた。タイトルの通り、多摩川上流の川面を16mmフィルムで撮影した映像を、二子玉川近くの堤から川面に投影したものだ。当時、山中が参加していた「第一次美共闘REVOLUTION委員会」における、美術館や画廊を使わずに一年間発表するという取り決めに端を発した作品である。「クリストの言った『想像と現実・計画と実現との間にあるギャップの問題』というような方法に影響され作品を作った、(但し、自分なりの解釈のしかたで)」(「美術館を離れて」『美術史評』No.3、1971年)と山中自身が述べ、クリストの他、ロバート・スミッソンやアラン・カプローへの言及もあることから、ランド・アートやオフ・ミュージアムといった動向の批判的継承をもくろんだという一面があった。またジョセフ・コスース《一つの、そして三つの椅子》(1965年)や高松次郎《この七つの文字》(1970年)といったトートロジカルに、あるいは自己言及的に芸術の存立根拠を問うようなコンセプチュアルな文脈からも評価されてきた。映像、イヴェント、パフォーマンス、インスタレーション、ランド・アートなどさまざまな方向へ接続可能性を持ったこのデビュー作からピンホールを用いた表現への展開について、本人の説明はのらりくらりとしたものだ。「…どうしてピンホールになったか、その理由はいえないんだけれどもね。川に川のフィルムを写す、ビニールにとなって、そこからピンホールに行きません?(笑)」(「インタビュー作家論 山中信夫――無価値な穴の回転箱」、p.167)
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ぼくのピンホールっていうのはさ、写真じゃなくって最初はムービーでできてたんですよ。四角い箱をつくってさ、釘穴を開けて、その中に入って見る体験っていうのがおもしろくてね。
「映像対談 映像美術殺法帖」(渡辺哲也との対談)『美術史評』No.9、1978年5月、p.29
デビュー翌年の1972年、「第5回 現代の造形〈映像表現 ’72〉もの、場、時間、空間-Equivalent Cinema-」(京都市美術館)に参加した山中は、会場の片隅に2×2×4mのピンホールの箱《ピンホール・カメラ》を設営した。観者は真っ暗な箱(カメラ・オブスクラ)の中に入り、小さな穴から投影される縮小反転した展覧会まるごとを、リアルタイムで眺めるという体験型の「ムービー」作品であった。《川を写したフィルムを川に映す》も《ピンホール・カメラ》も、両者がともにムービーであったという本人の指摘は、山中の活動の展開を考える上で重要なポイントになるだろう。
もうひとつ重要な点がある。〈映像表現 ’72〉は、そのサブタイトルからもうかがわれるように、劇場での映画の上映でなく、美術館での映像の展示の可能性を探ることをコンセプトに据えていた。具体的には、現実から区切られたスクリーン「内部」における、イリュージョンとしての時間や空間を問題にする映画に対して、フィルム、プロジェクターやスクリーンといった物理的な装置、そしてそれら装置同士あるいは装置と観者の間にある空間といったスクリーン「外部」をも等価(equivalent)に作品として扱うような「美術としての映像」を標榜するものであった。山中はこの展覧会に参加しつつも、美術としての映像の自律性、現実と虚構あるいは美術と映画の二項対立といった考えからは距離を置いていた。「普通の映画のスタイルでも美術として考えていくとか、そっちの方がいいと思うんだ」(「映像対談 映像美術殺法帖」、p.29)。また(美術館の映画館化でなく)展覧会を上映する映画館のような「箱」を展示室内に入れ子状に設置した山中の作品は、1970年前後に制作する美術家が踏まえざるを得なかったミニマル・アート(物体性)とコンセプチュアル・アート(観念性)双方の問題意識に鋭く反応するものであった。さらに、それら作品の固有性や自律性はいずれも、美術館という場と制度に依存した自足でしかない点を乗り越えようとするものであった。
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…こんどはフィルムに写すじゃない、すると全然ちがうものになっちゃう。暗いから長時間露光するでしょ。すると動いていたものなんか消えちゃって、中でみていた像と現像されてできた像が全然ちがっちゃう。そこがおもしろいね。
「映像対談 映像美術殺法帖」、p.29
体験型のムービー作品《ピンホール・カメラ》発表の翌年となる1973年、ピンホールを用いた山中の取り組みは、いくつかの方向へ展開を遂げる。まず手持ちカメラを改造したピンホール・カメラで東京の街を撮影したシリーズ(撮影後の35mmカラー・ポジフィルムを引き延ばし、印画紙に焼き付け)。うち1点は『美術手帖』(No.370、1973年8月)表紙への掲載という形で発表された。もうひとつは「第6回 現代の造形〈映像表現 ’73〉―写真・フィルム・ビデオ―」(京都市美術館、1973年9月)に出品された《ピンホール・ルーム REVOLUTION 1》(1973年)に始まる、自宅の部屋を丸ごとピンホール・カメラに仕立てたシリーズ。壁に開けた穴から投影される外部の風景を、対向する壁の全面にリスフィルムを貼り撮影した(フィルムを印画紙に密着焼き付け)。両者に共通するのは、現在時の鑑賞経験に主眼が置かれた《ピンホール・カメラ》と異なり、印画紙へ定着されたこと、つまり写真となったことである(故に出来事は現在から過去の相へ送られる)。そしてピンホール・カメラはファインダーを覗いて瞬間的にシャッターを押すわけではなく、長時間の露光を要するため「待ち」の時間が生じる点も大きい(山中の作品には露光48時間というものもある)。このような特性を持ったピンホール・カメラでの撮影によって生じるのは、写真=イメージが、箱の中で見ている主体/主観から半ば切り離されるという事態である。逆に言えば、幽体離脱のように二重化した主体/主観の一方が、箱の外へと出ていくような事態である(ポータブルなカメラで撮影されたシリーズでは文字通り実践され、また「部屋型」のシリーズでは室内にいる山中自身が影として像化されるというかたちで)。では、箱の外には何があったのだろう?
(後編に続く)
Nobuo Yamanaka | 山中信夫
前期:2023 年5 月27 日(土)〜7 月1 日(土)
後期:2023 年7 月15 日(土)〜8 月19 日(土)
夏季休廊:8 月9 日(水)〜8 月16 日(水)
開廊:火〜土 11:00 – 18:00
休廊:日曜・月曜・祝日
〒140-0002 東京都品川区東品川1-33-10 TERRADA Art Complex 3F TSCA
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