細倉真弓
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Profile
細倉真弓 | 立命館大学文学部、及び日本大学芸術学部写真学科卒業。 触覚的な視覚を軸に、身体や性、人と人工物、有機物と無機物など、移り変わっていく境界線を写真と映像で扱う。東京/京都在住。 主な個展に「Sen to Me」(2021年、Takuro Someya Contemporary Art、東京)、「NEW SKIN |あたらしい肌」(2019年、mumei、東京)、「Jubilee」(2017年、nomad nomad、香港)、「Cyalium」(2016年、G/P gallery、東京)、「クリスタル ラブ スターライト」(2014年、G/P gallery、東京)、「Transparency is the new mystery」(2012年、関渡美術館2F展示室、台北)など。 主なグループ展に、「恵比寿映像祭2023 テクノロジー?」(2023年、東京都写真美術館、東京)、「後人類敘事——以科學巫術之名 Post-Human Narratives—In the Name of Scientific Witchery」(2022年、香港医学博物館、香港)、「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2022」(2022年、HOSOO GALLERY 、京都)、「ジギタリス、あるいは一人称のカメラ|石原海、遠藤麻衣子、長谷川億名、細倉真弓」(2021年、Takuro Someya Contemporary Art、東京)、「The Body Electric」(2020年、オーストラリア国立美術館、キャンベラ)、「小さいながらもたしかなこと」(2018年、東京都写真美術館、東京)、「Close to the Edge: New photography from Japan」(2016年、MIYAKO YOSHINAGA、ニューヨーク)、「Tokyo International Photography Festival」(2015年、ART FACTORY城南島、東京)、「Reflected-Works from the Foam collection」(2014年、Foam Amsterdam、アムステルダム)など。 写真集に『WALKING, DIVING』(2022年、アートビートパブリッシャーズ)、『FASHON EYE KYOTO by MAYUMI HOSOKURA』(2021年、LOUIS VUITTON)、『NEW SKIN』(2020年、MACK)、『Jubilee』(2017年、アートビートパブリッシャーズ)、『Transparency is the new mystery』(2016年、MACK)など。 作品の収蔵先として、東京都写真美術館など。 WEB花椿(資生堂)にて、エッセー「まぶたの裏、表」を連載中。 |
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Awards
Solo Exhibitions
2023 | 「散歩と潜水」Takuro Someya Contemporary Art、東京 |
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2022 | 「I can (not) hear you powered by EDION」京都河原町ガーデン8F、京都 「CELL(s)」Sony Park Mini、東京 |
2021 | 「細倉真弓|Sen to Me」Takuro Someya Contemporary Art、東京 |
2019 | 「NEW SKIN|あたらしい肌」mumei、東京 |
2017 | 「Jjuubbiilleeee」G/P gallery、東京 「JUBILEE」nomad nomad studio、香港 |
2016 | 「CYALIUM」G/P gallery、東京 |
2014 | 「クリスタルラブスターライト」G/P gallery、東京 「Transparency is the new mystery」 POST、東京 |
2013 | 「Floaters」G/P gallery、東京 |
2012 | 「Transparency is the new mystery」 関渡美術館 2F 展示会、台北 「KAZAN」スパイラルホール、東京 |
2011 | 「KAZAN」G/P gallery、東京 |
Group Exhibition
2023 | 恵比寿映像祭2023「テクノロジー?」、東京都写真美術館、東京 |
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2022 | 「50秒」Soda、京都 「伊勢周平、大山エンリコイサム、細倉真弓、ラファエル・ローゼンダール」Takuro Someya Contemporary Art、東京 「後人類敘事——以科學巫術之名 Post-Human Narratives—In the Name of Scientific Witchery」香港医学博物館、香港 |
2021 | 「ジギタリス あるいは1人称のカメラ|石原海、遠藤麻衣子、長谷川億名、細倉真弓」Takuro Someya Contemporary Art、東京 「アケネ・ヒーマン&クミ・ヒロイ、潮田 登久子、片山 真理、春木 麻衣子、細倉 真弓、そして、あなたの視点」資生堂ギャラリー、東京 |
2020 | 「TOKYO PHOTOGRAPHIC RESEARCH展」、六本木蔦屋書店 BOOK GALLERY、東京 「The Body Electric」オーストラリア国立美術館、キャンベラ 「ENCOUNTERS」ANB Tokyo, 東京 |
2018 | 「小さいながらも確かなこと」東京都写真美術館、東京 「Tsuka: An Exhibition of Contemporary Japanese Photography」Centre for Contemporary Photography、メルボルン 「Corpus Lux」The Triennial of Photography Hamburg、ハンブルク |
2017 | 「calling/ re-calling わたしは 生まれなおしている」 京都造形芸術大学、京都 「Homage to the Human Body」Galleri Grundstof、オーフス 「RAP MUSEUM」市原湖畔美術館、千葉 |
2016 | 「Jimei × Arles International Photo Festival」Jimei Citizen Center、厦門 「MACK chez colette」colette、パリ 「Shikijo: Eroticism in Japanese Photography」Blindspot Gallery、香港 「Close to the Edge: New Photography from Japan」Miyako Yoshinage、ニューヨーク 「MACK CONCEPT TOKYO」 IMA gallery、東京 |
2015 | 「Jimei × Arles International Photo Festival」Xiamen Horticulture Expo Garden、厦門 「Tokyo International Photography Festival」Art Factory 城南島、東京 |
2014 | 「Reflected – Works from the Foam Collection」Foam Amsterdam、アムステルダム 「G/P Collection Ⅱ」G/P+g3/ gallery、東京 |
2013 | 「Space Cadet Actual Exhibition #2」Turner Gallery、東京 |
2012 | 「Space Cadet Actual Exhibition #1」Turner Gallery、東京 「oodee presents POV FEMALE Tokyo」CALM & PUNK GALLERY、東京 「Natures」Galerie LWS、パリ |
2011 | 「untitled/image」Cultivate、東京 「THE PHOTO / BOOKS HUB TOKYO」表参道ヒルズ、東京 「Mizu no Oto – Sound of Water」 FotoGrafia、Festival Internazionale di Roma、ローマ 「Talent 2011」Foam Amsterdam、アムステルダム |
2010 | 「ヨコハマフォトフェスティバル」横浜赤レンガ倉庫、横浜 「NEW / ANOTHER FASHION PHOTOGRAPHY」トーキョーワンダーサイト本郷、東京 「The EXPOSED #5」CASO、大阪 |
2009 | 「TOKYO PORTFOLIO REVIEW」トーキョーワンダーサイト本郷、東京 「The EXPOSED #4」CASO、大阪 「The EXPOSED #3.5」ART ZONE、京都 |
2007 | 「The EXPOSED #2」CASO、大阪 / Punctum、東京 「SECRET PHANTOM」MAGIC ROOM?、東京 |
2005 | リクルート 第25回写真「ひとつぼ展」ガーディアン・ガーデン、東京 |
2004 | リクルート 第23回写真「ひとつぼ展」ガーディアン・ガーデン、東京 |
Publication
2022 | 『WALKING, DIVING』アートビートパブリッシャーズ supported by 富士フイルムビジネスイノベーション |
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2021 | 『ファッション・アイ京都 BY 細倉真弓』Louis Vuitton |
2020 | 『New Skin』MACK |
2017 | 『写真集 川崎 Kawasaki Photographs』Cyzo |
2017 | 『Jubilee』artbeat publishers |
2016 | 『Transparency is the new mystery』MACK |
2014 | 『浮游物: Floaters』Waterfall |
2014 | 『クリスタルラブスターライト』TYCOON BOOKS |
2012 | 『Transparency is the new mystery』自費出版 |
2012 | 『Unknown Signals』oodee |
2012 | 『KAZAN』artbeat publishers |
Collection
Others
アートフェア | |
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2022 | Art Collaboration Kyoto(ACK)、国立京都国際会館イベントホール、京都 |
2012-17 | Unseen Amsterdam、アムステルダム |
2013-14 | パリ・フォト、パリ |
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眼指、光舐め
Hajime Nariai (National Museum of Modern Art, Tokyo) 成相肇(東京国立近代美術館)
1.
そこに写っているものが何かはわかる。その名も知っている。サイアノタイプの紺青色も、縮緬状にしわが寄った綿布も、端の方にちいさく施された銀糸の刺繍も見てわかる。わかるけれども、いまわたしが感じている形や青やしわの感じを、そこから想起されるさまざまの印象を、この湧き上がっている意識を、わたしはあなたにそのまま伝えることができない。そしてこの文字列からあなたが何を思い浮かべ、あなたの中でどのような感覚が湧き上がっているのか、わたしにはわかり得ない。たとえ今あなたがわたしの目の前にいて、対話することができたとしても。
なぜ森羅万象の記述は、つねに2つ──1人称の記述(「私は赤を見ている」)と、3人称の記述(「彼は、彼の脳のある経路が600ナノメートルの波長に遭遇したとき、赤を見ていると言う」)──が並列しているのだろうか? いったいどうして2つの記述はまったく異なり、しかも相補的なのだろうか。
細倉真弓がこれまで写真を発表しながらことごとに吐露してきた彼女の動機は、写真そのものよりもその手前にある体験(の共有)という問題であった。それはいわゆる「クオリア問題」であるといっていい。細倉は「写真そのものを眺めるよりもより写真的であると言うしかない体験」を、あるいは「客観的な視覚=正しい視覚という役割の写真とは違う、より個別的な視覚を共有するための写真」 を思い描き、「自分の視線と誰かの視線を重ね合わせること、そしてその結果、全く違うものを見ていること。わかりあえなさを共有するような体験の先に何かあるのだろうか」 と投げかける。スティル・イメージのスティルネスを疑い、視覚の不確定性を招き入れることに、細倉の関心はある。
クオリア──主観的な世界を感じる生(なま)の感覚──を、我々は生のまま他者に対して伝えることができない。脳と心は、客観的に観察される非自己と主観的な自己は、なぜか隔たっている。脳内の物質が感性や感覚や意識なるものを生み出すことがなぜできるのかは不可解で、あるシステムに意識が宿るのかを外から確かめる術は未だ存在しない。600ナノメートルの波長というデータの記述のなかに赤色は見えない。電気ナマズが皮膚を介して電場を感知する仕組みは科学的に(3人称的に)解明されているが、電気を感じるというその感覚は、決して我々にはわからない。1人称をまとめて「我々」と言っていいのかさえも、ほんとうは不確定なのだ。
長く哲学者が議論してきたこのクオリア問題とは、いわば翻訳の問題だというのが神経科学者のV.S.ラマチャンドランの回答である。文字や音声による通常の言葉と、神経インパルスという、たがいに理解できないふたつの言語の通訳不可能性に基づいているのだと。感覚を言葉に変換することなく、脳どうしを、神経繊維によってどうにかして直接つなぐことができれば、わたしはあなたの感じる赤の赤さや痛みの痛さを、電気ナマズが感じているクオリアをも、原理的には体験し得るとラマチャンドランは言う。2.
17世紀オランダにおいて、画家たちはとりわけ陶器、ガラス、金属などの平滑面に輝く反射光や透過光を描写することにこぞって熱中していた(fig.1)。光の照り返しや写り込みに眼をこらし、絵の具を盛り上げてハイライトを描き出すとき、画家の眼は忠実に光の情報を拾い上げるレンズないしガラス球になる必要があった。トロンプ・ルイユ(眼だまし)を作り上げるには、まず描き手自身が自らの眼をだまさなくてはならない。ふだん生活している通りに眼に入る情報を効率よく取捨して対象を分節し、過ごしやすくこの世を認識するのとは違って、そのとき画家はスキャンするように分節の網をすべて等価に解かねばならない。輪郭や固有色を認識してしまう脳をあざむいて、走査に徹底しなければならない。それは非情な眼である。しかし同時に、表象としてではなく遍(あまね)く注ぐ光の束として世界を見つめ、物質そのものには属さない一層上を束の間遊泳する光をなぞっていく行為=光を舐める行為は、世俗的には感知することのできない不可視の霊性の体感と結びついてもいただろう(fig.2)。周知の通り、そのための眼を実現するために必要であったのが、カメラ・オブスキュラであった。
非情なカメラ・アイと人の眼との誤差は、意識下のレベルで知覚を処理している(知覚させている)何者かの存在を示唆する。画家たちはファインダーを覗いて、人の認識の手前にいる「脳の中の幽霊」(ラマチャンドラン)に出会おうとしていたということだ。この覗き穴としてのファインダーと画家との関係を、今日のメディア環境にスライドさせてみるとどうだろう。いまやファインダーは覗くものではなく、覗かれる世界の側に標準インストールされているのだ。デバイスが立ち上がるのと同時に起動しているファインダーは、アプリケーション名がディスプレイの片隅に小さく表示されているばかりで、我々はもはやそれをあえて意識することはない。さていま、「ファインドする者」とは誰なのか?
電子機器上のファインダーに表示されるのはむろん、疑似的な空間である。しかし失認の事例を通して脳科学が解き明かしてきたように、あるいはルネサンスの画家たちがとうに知っていたように、我々の認知はシステムとして元来疑似的なのだった。そこでセンチメンタルに真正なる体験という幻想を追っても詮ない。では、コンピューターが脳の仕組みをシミュレートしているならば、そのファインダーを泳ぐ電気ナマズのクオリアを、泳ぐ感じを、聞くことはできるのではないか。「写真的体験」、「個別的な視覚」のインパルスを翻訳し、共有することもできるのではないか。翻訳までは望めなくとも、個別のクオリアの「わかりあえなさ」をスティル・イメージによって逆説的に示すことはできるのではないか──それが細倉の提案ではなかったろうか。ちょうどよく我々とつながっている他者がいるではないか! 指先という電気ナマズが。Fig.1 ウィレム・カルフ《聖セバスティアヌス射手座組合の角杯、ロブスター、グラスのある静物》1653年頃、ナショナル・ギャラリー、ロンドン
Fig.2 ヤン・フェルメール《紳士とワインを飲む女》1658-1660年頃、絵画館、ベルリン
3.
細倉のここ数年の発表作の展示を特徴づけるのは、壁面の写真を集中管理するように中央に設置された複数のディスプレイである。個展「散歩と潜水」でもやはり、一対の縦長のディスプレイが背中合わせに設置された。片面では、細倉が「地図」と呼ぶ、彼女が日々採集し、蓄積し、合成を続けてきた巨大なイメージが、タッチスクリーン上で操作される仕方で、上下左右に移ろい、また拡大され縮小される様が映し出される。壁面に展示されたサイアノタイプはこの「地図」からスナップされた部分である。人の肌や物質の表面がひたすらシームレスにつながっていく違和感と、こちらの意図とは無関係に視点が移動していく居心地の悪さ(視点の移動というより、「触らせられている」感覚だ)、そしてときおりのぞく真っ黒な「地図」の外部にぎょっとする。この映像はいったい何だろうか。「定着される前」の体験を見せようとする細倉が、ここで文字通りイメージが定着するまでの過程を実演しているのだと短絡するわけにはいくまい。
耐えきれないほどゆっくりとしたスクロール──まさに我々はその動きを物質的に翻訳して「重たい」と表現する──など、かねてから細倉はこのディスプレイ展示によって疑似触知覚を扱ってきた。その展開で今回の白眉だったのは、もう片側のディスプレイに現れた手の映像であった。ポートレイトとして正面から見据えられた右手が、抑制された動きで、スワイプ、ピンチイン、ストレッチアウトのジェスチャーを見せる。それは明らかにこちら側にある何らかのイメージを探り、撫で、まさぐり、光を舐める演技だが、指先が明かりを求めてうごめくようなその緩慢な動作の、なんと不気味なことか。これは展示された写真作品を選ぶ過程を説明的に見せる映像ではなく、まぎれもなく今日のファインダーと、今日の眼のドキュメントである。
指先が何かを見ており、そこに独自のクオリアが生まれているという発想は、決して荒唐無稽ではない。皮膚科学研究者の傳田光洋は、皮膚は「体表面に拡大された大脳」であるとさえ述べる 。皮膚は自己と非自己とを見分ける免疫機構を備える最前線の臓器であり、刺激を受容し情報を神経系に伝えるセンサーであり、環境と生体のインターフェイスである。
今回の個展で細倉が、物質的な現像プロセスが露わなサイアノタイプをわざわざ採用し、綿布にしわを作り、パズルのように図像をずらし、刺繍を施してまで触覚性を強調していた理由がこれでわかる気がする。この展示は、もうひとつの脳であり、わたし自身と区別できないのと同時にわたしから隔たった他者としての、指先の皮膚が見た世界として構成されている。生体認証が眼の虹彩と指紋のふたつに代表されることがいかにも象徴的に示すように、手指と眼とが対等に並び立つという主題は、きわめて今日的だ。4.
人体の表面において唯一手で触れてはならないのは、眼球である。[1] V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー 山下篤子訳『脳の中の幽霊』角川文庫、2011、p.358-359
[2] 細倉真弓「まぶたの裏、表 Vol.01 写真的体験」『ウェブ花椿』2022.08.22、 https://hanatsubaki.shiseido.com/jp/eyelids/19281/
[3] 細倉真弓「線と目」、個展「Sen to Me|細倉真弓」ステートメント、2021.9、https://tsca.jp/ja/exhibition/the-eye-draws/
[4] 傳田光洋『皮膚は考える』岩波書店、2005
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細倉真弓:「散歩と潜水」展覧会レビュー公開のお知らせ
2023年9月2日から10月21日までTakuro Someya Contemporary Artにて開催しました、細倉真弓個展「散歩と潜水」のレビューを成相肇氏(東京国立近代美術館 美術課 主任研究員)にご執筆いただきました。詳細はこちらよりご確認ください。 https://tsca.jp/ja/artist/mayumi-hosokura/#text |
細倉真弓:「散歩と潜水」展覧会レビュー公開のお知らせ
2023年9月2日から10月21日までTakuro Someya Contemporary Artにて開催しました、細倉真弓個展「散歩と潜水」のレビューを成相肇氏(東京国立近代美術館 美術課 主任研究員)にご執筆いただきました。詳細はこちらよりご確認ください。
https://tsca.jp/ja/artist/mayumi-hosokura/#text