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鈴木基真「あわいとあいだ」を見て
Hideaki Shimamoto (Curator, Artizon Museum, Ishibashi Foundation) 島本 英明(石橋財団アーティゾン美術館 学芸員)
鈴木基真の個展「あわいとあいだ」を訪れて、機先を制されたかのように強く印象づけられたのは、冒頭の壁にかけられていた建物の鎧戸とその周囲の構造を造形化した作品であった。本来であれば三次元において成立する建築物を構成する一部分が、このように単独で示されることで、見る側は虚を衝かれる。全体を黒で塗り込められ、鎧戸も閉ざしたこの構造は、窓の帯びる象徴的な意味合いをくぐって、世界と意識とを隔てつつ媒介する機構として概念的に表されているのだろう。しかし、この作品が魅力的であるのは、そうした理解を表層で受けとめながらも、その上で見る者の眼を惹きつけて離さない造形の確かさにあるのではないかと思う。その確かさとは、近代以前のヨーロッパではその技術が理想的な身体を通じて理念を表すべく用いられたのに対し、鈴木においては、類似のイメージの複製や氾濫によって自ずと生み出されるいわば範型―それは誰しもが眼にしたことがあるようで、誰も実際には眼にしたことのない−を現出させる上で発揮されているように思う。現実においては眼にしえないものを質料によって三次元の空間に現前させるという彫刻の本分を踏まえつつ、イメージとの関わりにおいて、彫刻固有の性質を絶えず再検討していくこと。鈴木の関心はそこにあるのではないだろうか。
この冒頭の作品に続く展覧会の前半では、「objects」と名づけられたシリーズ作品が展開されていた。鈴木はキャリアの初期から、子どもの頃に親しんだアメリカ映画の中で眼にした建物などからなる風景のイメージを彫刻に起こす試みを行ってきた。似通ったサイズの楠の角材から彫り出されているのは、西洋風の一軒家やビル、ガソリンスタンド、何かの塔、車などで、それらは今回、コの字型の壁を背に、間隔をさほど置かず配置されていた。基本的に、鑑賞者の目線に近い高さの台の上に作品を集合させる展示方法がとられてきたこのシリーズにおいて、これは新たな試みであり、点数もまたこれまで以上に多い。
ラインをなすように壁に並べることで図られたのは、作品間のシークエンスを生み出すためだろうか。しかし、何らかの連続性を紡ぎ出す要素はそこに見出せない。共通して指摘できるのはメリハリの利いた賦彩で、細部を省略されながらも、必要最小限の色数で効果的な色彩表現が生み出されている。ディテールを欠きながらも鮮烈で生々しく眼に映る光景は、いわゆる印象、すなわち記憶に刻まれた視覚的なイメージを思わせる。
一部の作品で、鑿跡を多分に残した粗めの仕上げがみられる点もこのことに符合するかもしれない。つまり、それらにおいて、彫刻の造形は対象の明瞭な輪郭に重なるのではなく、断片的で不確定な揺らぎを内在させたイメージを表している。すなわち、ここで鈴木の彫刻をめぐる関心は、対象化された建築物などの造形性ではなく、それが人の意識に切れ切れに映じるイメージに形を与えることに向けられているようである。
鑑賞者は壁に沿って、これらの規定し難い造形物にひとつずつ向き合いながら歩みを進めていく。その形態の呈するイメージは既視感を刺激するようで、どこにも定着することはなく、見る者の知覚は宙吊り状態におかれることを余儀なくされる。その一方で、これらの造形物の彫刻としての性格、物質性と空間性を感覚は確かに捉え、それは一点に向き合うごとに積み重なっていく。その結果、造形物は空間における実在性、リアリティをそなえて、個別にではなく、全体として鑑賞者の前に現れることになる。鈴木はここで、単体では断片的である造形物を、鑑賞者と時間の要素を組み込みつつ集合体として編成することで、鑑賞経験を通じて成立する作品のあり方へと「objects」シリーズを導いているように思われる。
オブジェクトのシークエンスに沿ってイメージが継起する形式の中で彫刻性を発動させていた「objects」シリーズに対し、展示の後半部をなす「reflections」と称された作品群では、枠をそなえた窓が作品の基盤、いわば支持体となって、1点ごとに完結したあり方でイメージとの関係が造形化されている。
鈴木における窓への関心は、2016年に開催された個展「wall, roof, window」で既に明らかであり、さらには枠組みを通してイメージが提示される作品の形式は、2017年のVOCA賞で初めて発表されたライトボックスによる作品「Ghost」に遡ってみることができる。「Ghost」は、粘土で作られた建物のファサードや外壁を写真に撮り、そのイメージを内光によって照らし出す試みがなされた。闇と光が司る平面的なイメージにおける彫刻的なものの行方が焦点化された作品であった。
それを踏まえて今回の「reflections」シリーズを見ると、窓枠は鑑賞者に外界の眺めを提示すべく作用するようでいて、その造作からこれは建物の外側に属するものであることがわかる。すると、窓枠の内側に映じるイメージは、外界の反映像ということになる。その基本条件のもと、軒や生い茂る木の葉叢、その奥にのぞく青空など、複雑なレイヤーをそなえた風景を描き出す鈴木の筆致は活き活きとした冴えを見せている。歪みや不意の映り込みなどを随所に描き、それが反映像であることを示唆しつつ、その条件など知らぬかのように、窓枠越しにさまざまなイメージの可能性を探る姿勢は、作品に一貫性をもたらしながら多様な様態を生み出すことに成功しているといえる。特筆すべきはグレイの窓枠をもつ作品で、大小5つの窓にわたって、木の枝と梢の交わりが多様な視点から描かれた断片的なイメージが示されており、反映像に縛られてはいない。つまり、窓の形式を借りながらも、その条件を逆手にとるように、鈴木はイメージの自由を宣しているように思われる。
もちろん、どの作品にも窓枠は付きまとう。それは、人が何らかの枠付けを受けることなしに眺めというものを手に入れることができないと物語るかのようである。加えて、絵画然と賦彩されている部分にも彫りが施されており、板の継ぎ目なども隠されていない。支持体とイメージは完全には重ならず、イリュージョンとしての魅力を存分に示しながらも、イメージは立体作品の論理へと帰されることになる。その結果、肉付けされたイメージとでも言えようか、窓の部分には独特のマティエールが生み出されている一方で、平滑であるべきところが凹凸を帯びて現れることで、それまでレディメイドを思わせる整然とした佇まいを見せていた窓枠もまた、彫刻による造形であることが明らかとなる。
しかし、より重要であるのは、平面的なイメージとして表された風景にあえて彫りが施されたところにあるのではないか。鈴木は彫刻家としての対象の表面のありようへの関心を、前述の展覧会名「wall, roof, window」が示す通り、建築物における内部と外部との境界をめぐるさまざまな作品において掘り下げてきた。今回の「reflections」シリーズは、風景そのものがあたかも世界の表面であるかのように彫り作られている。より正確に言うならば、歪みや揺らぎを生み出しうる世界の膜のようなものを彫刻する試みといえるだろうか。そこには、世界のイメージへの圧縮を繰り返す現今の方向に抗って、逆に、イメージを厚みのある世界へと引き戻し、還元するアプローチを認めることができるのではないか。
常にコンセプチュアルなアプローチが異彩を放ってきた鈴木の作品において、平面的なイメージと彫刻性、そして窓枠の構造が緊密に結びついた今回の「reflections」シリーズは、その方向性の着実な発展を示している。それと同時に、少なくとも近年ではもっとも絵画に接近した作品において、イメージの平面性にあからさまに抗する態度を示したことの意味は少なくないはずである。今後、窓枠に続く、見ることとイメージをめぐる新たな機構が作品に導入されるのか、あるいはそうしたものに拠らずに、世界の可塑性をうかがう作品が生み出されるのか。次なる展開に眼を凝らしたいと思う。
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